できる事とできない事の判別をする
私の後輩や周りに治療でどこまで改善するのかを想起できない方がいました。
この問題点は・・・
私は以下の事が原因と考えております
①評価と介入を正しく理解できていない
まず評価側の問題として
可動域に問題があるときに筋力の評価を第一選択にしますか? 整形疾患に最初に脳卒中の麻痺の検査をしますか?
介入側の問題として
可動域訓練を行って期待する効果はまず目的における可動域の拡大と思いますが、そのほかの事を最初に期待していませんか? 可動域の拡大によって二次的に改善する事はあると思いますが、それは前提として可動域の改善ありきですよね?
評価と介入のリンクの問題として
可動域制限が問題と分かっているのに最初に筋トレをするのでしょうか? 例えば筋トレを行った事で可動域改善が起きると考えての事でしたらそれは可動域改善の介入と呼べますが、目的もなく筋トレしますか?
問題点の抽出・介入の選択・評価と介入の整合性がとれていればまず再評価で見る点や次にやる事が見えてきます
②介入効果を過大評価(又は過小評価)している、介入効果の評価ができない
①に通ずると思うのですが分けて書かせていただきます。これは勉強(勉強会に参加・本をよく読む)をよくしていた人に見られる傾向です
厳しい言葉をあえて使うと・・・評価・介入システムを学び現場に落とし込んだ方が、方法を実施してそれで済ませているケースです(毒舌ですいません)
「あの先生がこう評価してこうやっていた」
「あの先生はうまくいったが私はうまくいかない」
「これはだめだ、使えない・・・」
「どこまでよくできるのか?あの先生はもっとよくできていたからまだよくなると思う・・・」などなど
なーーーんて後輩からよく聞かされていました(^^)喝を毎回入れていたことを思い出します
この場合クライアントが置き去りだなーって思うし、評価・介入している人が考えるのを放棄しているように思えます
介入効果は評価とセットだし、介入って言っているんだからそれ以上もそれ以下もないと私は思うんです
納得いくまで介入を実施したら結果も何がどう変わるか想起できるはずなんですよね・・・って思っています
それと想起した以上の結果が出た時
その時の経験があるからまだ介入効果の上限を決めないなんて言う方もいます。それは似た他のケースと比べそれが正しいのか、レアなケースだったのか、はたまた何が違いを生んだのか、どの要因を考慮する必要があったかなどを自分で考えましょう。そして介入効果の上限をしっかり決めた方がいいです(持論です)
③過大広告な近年の勉強会
これはここ何年かの傾向と言えます。何より発現している私もとある勉強会団体の運営の歯車だった時期があります。
今は関わっていませんがー・・・とはいってもビジネスですから他との差別化も必要ですよねー・・・言い過ぎはよくないなーと思う事もありますしー・・・今はその団体もそんな広告出してませんからね・・・まあ、多くは語れませんがいろいろありますよ!!察してください w
脱線しましたがこの何がいけなかったのか、今考えるといくつか例に出して答えていきます 広告例
〇〇秒で腰痛が改善!! →秒数ではなく何を評価するのか何を介入するのかが大事ですよね。そりゃ早く治療を行えた方がいいですけど、ある程度一定の介入ができた上で考える事だと思います
これをすればゴッドハンドになれる!! →症例や評価がいくつもあるけど、介入が一つというのは・・・私の臨床観では難しいと思います
受講生は過大広告によって内容の本質を見極められなくなります、ここでも大事なのは自分で考えることが大事という事です
今考えつくのは上の3つくらいですかね!
私の考えですが治療って魔法じゃないんですよね。例えるなら・・・定規!!
30㎝の定規があるとします。15㎝が半分なのでそのあたりが無症状として患者の症状はその30㎝定規の28㎝位としましょう w わかりにくいですか?w
私が行っている介入は15㎝付近(無症状に近い)に戻そうとする行為だと考えています
定規にはいろいろな種類があり「筋肉」「感覚」「骨」「筋膜」「皮膚」「足」「胸郭」「骨盤」「中枢」などなど・・・
28㎝の人もいれば2㎝の人もいます。やる事同じなわけないですよね!これが評価と介入と考えてます。
評価の大半は教科書や他者から学ぶことが多いです。
当たり前ですが教わったのが他者でも評価結果(定規の現在地)はクライアントが教えてくれます。教科書でも他者でもなく!
では介入は評価(定規の現在地)からどこまで15㎝付近まで戻せるか(改善)を考えますよね。それが改善結果の想起です。
この定規を他の定規とごちゃまぜにしたり、講師のデモや過大広告に踊らされると改善結果の想起が定まりません。
そして自信喪失しクライアントの発言に踊らされ、何をしているのか見失ってしまうのです・・・これは自分への戒めでもあります
そして人間のやる事ですから、知らない分野の事や評価・介入の範疇を超える事もあるでしょう。その時はわからないと言うのも大事です
私の恩師や尊敬している先生もそうです
怖いなと感じるのは
「任せてください!必ず良くします(^_-)-☆」って平気で評価もなしに言える人
確かにそれが理想ですがホントかよって思いますし私は信頼できません それよりも
「すいません、そのことに関してはわかりません、調べておきます。私はあなたの〇〇を評価しそれに対しこのような事を実施し、ここまでの改善を目指せます」
このようにできる事とできない事をはっきりさせ、できる事の改善の限界を示してくれる方が信頼できませんか?
それでクライアントがお金を払う価値がないと決めたのであれば求めている分野に詳しい知り合いに紹介すればいいじゃありませんか(きれいごとですが)
クライアントの事を本当に考えるのであれば
それが一番信用出来て親切だと思います(きれいごとですが)
できない事を判別しできないと言える方、できる事に対し評価し今持てる最高の介入ができる方が良い治療家と考えています
上の例えで言えば私は他の方より「骨の定規」を細かく評価し中央に近づける事を専門にできると思っています
他の定規も持ち合わせていますが圧倒的に骨の定規が得意です、足らないところは足らないと認めてますし知る努力もしていますが、それ以上に骨の定規の質を上げる事におもむきを置いています
それは骨の定規を深堀する事がその定規を必要としている人の為になるし、私の周りに自分の足りない事に長けている先生をたくさん知っているからです
紹介した方が早くクライアントにも良いと知っているからです(きれいごとですが)
書いてて(きれいごとですが)を書く度に信用・信頼はきれいごとを実行する事なのかなと思いました!良い発見でした w (また脱線)
できる事とできない事の判断をするというお話でした